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自由とは?・・・「言葉の泉」最後の問い

更新日:7月28日

自由の見直し


サルトル[サルトル1996]は、「自由の刑」という言葉で、自己実現のために避けることのできない自由という試練を私たちに突きつけています。自由とは、自らを由(拠り所)とすることを意味します。ただしこれは、自分の好き勝手という意味ではありません。何故なら、それでは逆に私利私欲に縛られているからです。実は、このようなはき違えが、今日のポピュリズムを産み、独善的に利益還元を受ける受益者と逆に善意が搾取される受苦者という二項対立の溝をより深めるのです。SNSの世界でもはき違えの自由が暴走しています。現実世界と異なりそこでは自由と承認の対峙に迫られることが少ないためです。これでは決して公平をなすことなどできません。私は、これまでの議論を踏まえれば、自由の自とは主観、それも、それのみ妥当する格率であると考えます。それは、すなわち良心です。したがって、自由とは良心を由(よし)とすることなのです。

【第3講 認知代謝症候群と自由より抜粋加筆】


自由の活動


「実在の統一が内に働く時において、我々は自己の理想の如く実在を支配し、自己が自由の活動をなしつつあると感ずる」[西田2019](第2講 統一の描写より抜粋)


私は、自分らしさと自分らしくあるが、第3講第2章第1節で取り上げた不確定性原理に準じていると考えます。方便として用いる自分らしさとは価値付けした“つくりもの”です。一方、自分らしくある(sense of authencity)とは内発的な良心に適うさまです。したがって思惟と直観である両者を同時に捉えられないことが、結果として私たちに「哲学的ゾンビ」のフリをさせる要因となっているのです。この問題を解消するためには「自分らしくなる(well-becoming of authencity)」しかありません。それは、直の経験そのものを自分らしさになるようにすること、これまでの議論を踏まえるならば、良心の立ち入り禁止区域(off-limits zone to the conscience)[竹村2007]を創ることのないように良心を格律へと昇華することなのです。


自己内展(Self involution)[竹村2021]はこの理念(目的)を表わしたモデルであり、弁証法的統合(dialectical accommodation)[竹村2012]はこのモデルにおける意味づけの方法概念です。そしてセルフスタディ(Self study)[竹村2012]が弁証法的統合の実践「場」のメカニズムです。私は、多様性社会にあってこれら三位一体の枠組みによる学修の習慣化が一人ひとりにウェルビーイング(well-being)の統覚体系を齎し、やがてそれぞれの自分らしさと自分らしくあるとが融合し一つ(一如)になると考えています。そして、この過程が西田の言うところの内なる統一における自由の活動にあたると捉えているのです。【第4講 内なる統一における自由の活動より抜粋加筆】


自由の悟り


それは、主観の(視座)傾性としての我執の認知、他者(性)の承認そして『他者は捉えであり自らの意識世界に共にある』という(共生的な)アイデンティティの自覚です。【第2講 映画『ソラリス』に見る意識現象世界より抜粋加筆】



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