この勇気とは嫌われるリスクに左右されるものであってはなりません。たとえ嫌われるとわかっていても持つべき勇気です。より厳密に言えば、嫌われる勇気とは他者から嫌われることを引き受ける勇気です。しかし、これが非常に難題です。というのも私たちは、自分には融即の観念から生じる他者の期待に応えて力を発揮しようとする欲求が、関わりの捉えに先立っているということを知りません。さらにこれが原因で、良心の立ち入り禁止区域(off-limits zone to the conscience)[竹村2007]を容易に創ってしまうことも知らないのです。その中でたとえ違和感を感じても、まるで自分が問題意識を持たないような「哲学的ゾンビ」のフリ[茂木2003]をしてしまうのです。この習慣が嫌われる勇気を持ちづらくしていくのです。(第3講 認知代謝症候群と自由より抜粋加筆)
[補足]
小屋につながれた犬がキャンキャン鳴いているとしましょう。私たちは、普段あまり気にかけないかもしれませんが、今その場にこの犬の様子に関心を寄せている一つのグループがいたとします。彼らのなかには、「散歩に連れていってあげようかな」、あるいは「撫でたら鳴き止んでくれるかな」、「何かあげようかな」と思う人もいれば、「もっと飼い主が自由に運動させたらいいのに」、「近所に迷惑をかけないよう黙らせてほしいと言った方がよい」、「小屋に入れて外に出さないでと言おう」と思う人もいるかもしれません。
良心が個性であることを理解している人は、それほどいないと思います。したがって、誰かが「放置しておいてはダメだよ。近所迷惑だから黙らせるように飼い主に言おうよ」と言ったとしましょう。そうしたら「そこまでしなくても」と思っていたとしても、あえて反論することまではせずに同調してしまうことは少なくないと思います。この際の状態を「社会的空想体系」[レイン1975]と言います。つまり私たちは主観の視座を切り替えながら経験をしていますが、他者の影響でその切り替えが混乱してしまうのです。そして殆どが「ニセの境地」すなわち「麻痺(感覚)を持たずに、この〈現実〉感覚そのものによって、麻痺されている」[同書]境地に陥るのです。私は、このことが「哲学的ゾンビ」のフリの引き金になっていると考えています。(第3講 社会的空想体系より抜粋再構成)
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