「『熱心な』教師は、日夜へとへとになるまで、教材研究、指導案作り、学習指導計画を立てて授業に臨み、そこで『予想もしなかったこと』に出会うたびに挫折感を味わい、自らの『力量の無さ』を痛感して、ストレスを蓄積してゆく」[佐伯1998]としています。これらは、教師の熱意が教職実践の中で空回りしていることを意味しているのです。(第1講 教師の行動特性より抜粋)
教師は、子どもの人間性を引き出す(educare[ラテン語])人、すなわちエデュケーター(educator)であって、単なる知識体系を子どもの頭の中(in)に構築する(struct)人、すなわちインストラクター(instructor)に甘んじていてはならないと思います。しかしながら教師の中には、教育は知識伝達であり学習は刺激と反応の繰り返しによる強化であるといった行動主義的な学習観が強いために、普段から子どもを「観ずに見る」[ブラックモア2015]、つまり子どもの「見方」を踏まえず結果だけを見てしまうという落とし穴に陥っている者も少なくないと思います。それ故子どもの新しい姿に出会った際に「それが何故であるか」といった原因よりも「それならこうすればいい」といった対処に関心が向いてしまいがちです。これは、子どもの学びを勝手に先回りして、どう自らの教育的見通し(vision)どおりに軌道修正させるかに心が奪われてしまっていることなのです。私たちは、このような言わば「せっかち癖」を改めなければならないでしょう。(第1講「教師が変われば子どもは変わる」より抜粋再構成)
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