自由の見直し
サルトル[サルトル1996]は、「自由の刑」という言葉で、自己実現のために避けることのできない自由という試練を私たちに突きつけています。自由とは、自らを由(拠り所)とすることを意味します。これは、自分の好き勝手という意味ではありません。何故なら、それでは逆に私利私欲に縛られているからです。実は、このようなはき違えが、今日のポピュリズムを産み、独善的に利益還元を受ける受益者と逆に善意の搾取される受苦者という二項対立の溝をより深めるのです。SNSの世界でもはき違えの自由が暴走しています。現実世界と異なりそこでは自由と承認の対峙に迫られることが少ないためです。これでは決して公平をなすことなどできません。私は、これまでの議論を踏まえれば、自由の自とは主観、それも、それのみ妥当する格率であると考えます。それは、すなわち良心です。したがって、自由とは良心を由(よし)とすることなのです。(第3講 認知代謝症候群と自由より抜粋加筆)
自由の活動
「実在の統一が内に働く時において、我々は自己の理想の如く実在を支配し、自己が自由の活動をなしつつあると感ずる」[西田2019](第2講 統一の描写より抜粋)
私は、自分らしさと自分らしくあるが、第3講第2章第1節で取り上げた不確定性原理に準じていると考えます。方便として用いる自分らしさ(identity)とは、価値付けしたつくりものです。一方、自分らしくあるとは良心に適う経験の有り様(sense of authencity)です。思惟と直観とを同時に捉えられないことが、結果として私たちに「哲学的ゾンビ」のフリをさせてしまうのです。したがって、この問題を解消するためには「自分らしくなる(well-becoming of authencity)」しかありません。それは、直の経験そのものを自分らしさになるようにすること、これまでの議論を踏まえるならば、良心の立ち入り禁止区域を創ることのないように良心を格律へと昇華することなのです。自己内展はこれに適う学習観であり、弁証法的統合は「自分らしくなる」ための考え方と言えます。これによって、容易に社会的空想体系に陥ることのないよう悟性としての「自」と「我」の視座傾性を強化します。さらに、主体のリフレーミング(reframing)によって後追いの「超自我」の視座に自分らしさの新たな希望(傾性)が能作されます。そして、実践を介した主観と主体の相互変容を通じて、やがて自分らしくあると自分らしさとが融合(accommodation)するのです。私は、この一如に従うことが西田の言うところの内なる統一における自由の活動にあたると考えます。(第4講 内なる統一における自由の活動より抜粋加筆)
自由の悟り
それは、悟性としての我執の認知、他者(性)の承認と(共生的な)アイデンティティの自覚です。(第2講 映画『ソラリス』に見る意識現象世界より抜粋)
Comments