私は、自分らしさを、主体すなわち自己の人格性の捉えであると考えます。例えば、子どもらしさ、教師らしさなどの「○○らしさ」というとき、私たちは同一化によって作り上げた社会的な通念(stereotype)ー価値付けしたつくりものーを方便として活用します。これに対して、自分らしさという言葉を使うときは、そこには社会的な役割だけではなくて、むしろ誰にも知られていない価値観や行動様式など、さらには、ありたい姿の希望も含んでいるのです。キーンの言葉を借りれば、これは「世界=内=存在」[キーン1989]と言えるのではないでしょうか。キーンは、『現象学的心理学』の中で、私たちが何者であって、どのように存在しているのかということにとって、絶対に決定的なものについて、「私たちの日常生活のすべてを通じて、その基礎そのものに共有されているもろもろの意味の集まり」であり、「先行する意味の集まりであり、そのなかのすべてのものが意味あるものとなる参照物の総体である」[同書]と述べています。従って、自分らしさには、identity とauthenticityの意味が混在しているのです。(第3講 良心の立ち入り禁止区域より抜粋加筆)
自分探しは我々に共通する最も重要なテーマです。私たちの精神世界は、個々の内に存在するのであり、「自分のあるべき姿を自分だけの責任で形成していく点にこそ人間の尊厳がある」というサルトルの言葉が示唆するように、自分らしさばっかりは人に教えてもらうわけにはいきません。あなたが、あなたの私学(Meology)という超学的領域研究における第一人者であり、それをあなたが受理しなければ何の価値もないのです。(※『自分らしさのシステム思考』ナカニシヤ出版2007より抜粋加筆)
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