私は、これまでいろいろな所で「みんな仲良くしましょう」と言われました。したがって、小さい頃から「和」を大切にする癖がついてきたように思います。同時に、「和」を乱すことは恥ずかしいことであるという考えも持つようになりました。このことが一般化していることが日本人の従順さや国の治安の良さにもつながっているように思います。しかし、この歳になってふと疑問に思うのは、「和」はどこにあるのかということです。決して目に見えるものではありません。やはり場の空気と言うしかありません。私たちは、これへの気配りを大変大事にしてきているのです。その前提には、「私たちは同質である」という暗黙の合意があるように思います。それ故に、「仲良くしよう」という気持ちだけで、なんとなくうまくやってこられたのではないでしょうか。一方、世界では多様性の調和が、持続可能でよりよい世界を目指す国際目標SDGs(Sustainable Development Goals)を実現するための共通の課題となっています。私は、このような趨勢にあっても、これまでどおりに「和」を空気のように捉えるだけで、そのための活動を先送りにしてしまってはいけないと思います。社会にあっては多様性という言葉が踊る一方で、教育の現場が何も変わろうとせず、不用意にこれに反する差異・分断の観念を子どもたちに植え付けてしまう事を危惧します。世界で唯一平和を憲法に掲げ「恥」を戒める私たちではありますが、その多くが「和」の真意を真剣に問うことなく、結果として階級的思想の(立花隆の言葉を借りれば)「消極的な加担者」となってしまっているような気がして、一人の教師として、大いなるもどかしさを感じてしまうのです。(第3講 恥を基調とする日本文化より抜粋)
私たちの「和」とは?
更新日:3月6日
Comments